甲斐間諜すぺしゃる 中編
元亀三年 四月十八日 晴れ 佐吉
…ああ気持良い気持良い気持…
「はっ!?」急に我に帰って目が覚めた。すると、
ふにゅっ
と柔らかくて暖かいものに顔が埋まった。まさか、と引いて見ると、
それはやはりおっぱいだった。さっき道にいた女の人が
横に寝ているのだ。しかも裸で。うわっ、僕も裸じゃないか!
ひえ〜 固まっていると女がうっすら目を開けた。にっと笑う。
僕は何とも言えない心持になって再び女の胸に顔を埋めそうに
なった。その時、
「サイゾウ!何をしておる!」としわがれた太い声がした。
それを聞いた女の人はかすかに身を震わせてからするりと
布団を抜け出し、瞬く間に着物を着て部屋を出ていった。
僕は何がなんだか分からず呆然とするのみだった。ここは狐の棲処
かも知れないと思った。障子から陽が射している。一晩ここにいたのか。
耳を済ますと外からはさっきの声の人と女の人の話声がする。
…「また一晩褥を共にしたのか。其の方の悪い癖じゃ」
「これはしたり。あの男子はシュウドウの気があったゆえ、
某は老婆心から正道の快楽を教示してやろうと…」
「ふん、もう良いわ。下がれ」
シュウドウって何なんだろう。いい加減調べなきゃいけないな。
正道と言っていることからするとあまりいい事じゃなさそうだが、
僕は人倫にもとることなんて大嫌いだし、とんだ濡れ衣みたいだ。
そう思っているとまた遠くからドスドスと足音が聞こえてきた。
「父上〜父上〜お屋形様がご逝去されたとは真でござるかあ!」
ぶっとい声だ。
「うるさいぞマサテル!御家の大事をその様な大声で」
「ほ、これは…しかしここにいるものは皆わが家の者ばかりにて…」
「たわけ!今そこによそ者が寝ておるわい」
僕のことだな。
「なんと。一体何者ですか?」
「さあな。まだ目が覚めぬゆえ」
すぱっと障子が開いて大きな影がぬっとこっちを覗きこんだ。
「ほほう…これはなかなかに見目麗しい男子ではござらぬか」
唾をすする音。き、気持悪い。
生々しく思い出したのでしばらく休んでから書く。
同日
「これ、全くお前はサイゾウより質が悪いの」
「何をおっしゃる。お屋形様とて高坂弾正殿と…」
そこへまた別の足音が聞こえてきた。また気持悪いやつだったら
どうしようと心配になった。
「マサテル、何を騒いでおるのだ」
「あ、兄上。いや某はお屋形様のことを…」
「かような場所で話すことではなかろう。こちらへ入れ」
どうやら三人は隣の部屋に入っていくらしい。
しめしめ、一部始終聞き取ってやる。お屋形様とは十中八九信玄の
ことだろう。これは怪我の功名だぞ。うひひ。
「お屋形様は、野田城にて病に臥されそのまま亡くなられたのじゃ」
「なんと!?やはりスッパの知らせは真だったのか…」
「父上、武田の家はいかなることにあいなりましょう」
「うむ、世継ぎのことで騒動は避けられまい」
「その時我が家はどう動けば…」
「関わらぬことじゃ。どなたであろうと当主の座に座る御方を
お屋形様と仰ぐのみ」
ふん、何だかずるい考え方だな。僕なら率先して動くがなあ。
「信ツナ、良いな?」
「父上の仰せのままに」
「マサテルはどうじゃ?」
「父上!まずはあの男子の素性を調べるが寛容!」
うは、僕じゃん。
「うん?お前まさかずっとそのことを考えていたのか…?」
「そ、その役目是非とも某に!じっくりと丹念に調べて
吟味致しますゆえ」
声が上擦っていて気持悪いったらない。何を考えているんだこいつは。
変態マサテルは涎をすすりつつ熱弁している。
「…お前そんなにあの男子を抱きたいのか?」
「ばっ馬鹿な!某は純粋にわが真田家のためによかれと思い…」
嘘吐け
「嘘であろう」
「嘘じゃな」
「なななな…」
ぶくぶく泡でも吹いてんじゃなかろうか。
「ともかく、あ奴の事を調べるのは後じゃ。儂はこれより御館に行って参る」
「しっしからばその間あの者は?」
「そう顔を近付けるな。唾が飛ぶ。牢に繋いでおけば良いじゃろ」
「では某に!」
言うが早いかぐわしっと襖が開いてマサテルらしき大男が
踏み込んできた。想像通りのむさ苦しい男だ。熊みたいに毛深い。
そいつが布団の中に手を入れてくる。反転する間もなく首筋と太股を
掴まれ抱き抱えられた。袂から腐った便所納豆みたいな臭いがする。
「そっそれじゃ連れて行きまする」
生暖かい息が顔にかかった。な、南無八幡…。臭いなんてもんじゃ
ない。今ので十年は寿命が縮んだはずだ。人生四十年になった。
「…」
おい!?何で黙ってるんだ。ま、まさか…や、止めろ、それだけは
止めてくれーーー…
「おや、これはこれは父上に兄上方。皆お揃いで何の悪巧みに
ござるかな?」
我に帰った変態が慌てて顔を遠ざける気配がする。やれやれ助かった。
地獄に仏とはこのことだ。安心ついでに少し脱糞してしまった。
同日
薄目を開けて見ると皆新参者の方に顔を向けている。
変態は見れば見るほど醜男だ。いっそ憐れになってくる。
「キ兵衛ではないか。その方も父上に呼ばれたのか」
「無論でござる。某とて一応イットク斎ユキタカの息子ゆえ」
このキ兵衛という男はなかなかの好男子のようだ。変態なんかより
この男に抱かれているなら良いのに…等とおかしなことを
思ってしまった。油断した隙に糞がまた少し顔を出した。
異臭が漂う。ユキタカと信ツナが眉をひそめてこっちを見た。
変態はまだ気付いてないようだ。鈍い奴。キ兵衛は臭いで初めて
気付いたように訊いた。
「時にマサテル兄者が抱いている若者は誰でござるか?」
「昨日サイゾウが捕まえてきたんじゃ。怪しい奴だとな」
「ふむ、どれ、顔を拝見」
キ兵衛が近寄って来る。変態は少し警戒しているようだ。息が荒い。
というか臭い。キ兵衛は素知らぬ顔で僕の顔を覗き込んでいる。
赤面してなきゃいいけど。キ兵衛はますます顔を近付けてくる。
息がこそばゆい。と、耳元で小さく囁いた。
「案ずるな。無事尾張に返してやる」
心臓が飛び上がるほど驚いた。狸寝入りはおろか素性までもばれて
いたとは。今来たばかりなのに。こいつはすごい奴だ。
同日
「うぬ、キ兵衛!今儂の男子に唇を付けたろう!しかと見たぞ!」
怒っても醜さは変わらない。というか更にひどい。
「滅相もない。某はただ見覚えがないか確かめたまで。それより今
儂の男子と申されましたな?」
「いっいやその…」
慌てた様も醜い。キ兵衛はいじり飽きたかのようについとユキタカの方を向いた。
「父上、某はこの者を放免してくださるようお願い致しまする」
「何じゃと?」
「だっ、駄目じゃ駄目じゃ駄目じゃ駄目じゃ駄目じゃ駄目じゃ!!
そんなことは断固許さんぞ!」
変態が狂ったようにわめいた。つくづく醜い。
「それは何か故あってのことなのか?」
信ツナは冷静だ。変態だけ浮いてる。拾われ子だったりして(笑
「無論でござる。某最近人相見に凝っておりましてな。今その者の
顔を眺めたところ、逃がした方が御家のためと出申した」
「こ奴を放すのが武田家のためとな?」
「いえ、我が家の」
「何?我が真田のためだと?それは何故じゃ」
「さ、そこまでは」
「何が人相見じゃ!左様な迷信儂は信じぬぞ!逃がすなぞとんでも
ないわ」
興奮のあまりぎゅっと抱き締められた。死が近くなった。しかし、
「ん?何じゃこの臭いは!」
今頃気付いてやんの。無理もないか。あの体臭だもんな。
変態はいまいち確信が持てなかったらしく、僕の尻に顔をくっつけて
臭いをかいでいる。
「臭っ」
言うなり布団に落とされた。見上げると鼻に糞が付いている。
僕は思わず爆笑した。他の三人も釣られて笑い出した。変態は顔を
どす黒く染めてうおーっと雄叫びを上げて腹を蹴ってきた。
僕は壁にたたき付けられてうめいた。他の三人はと見ると
いつの間にか済ました顔に戻っている。表裏比興の連中だ。
「儂はこんな糞垂れの肥溜めに懸想していたとは」
変態は憎々しげに言い捨てて、わざとらしく音を立てながら出ていった。
僕はほっと胸を撫で下ろした反面、何故か一抹の寂しさを覚えた。
「マサテル兄者はお変わりになられましたな」
「うむ。先の戦で傷を負うたゆえ湯治に行かせたのじゃがそこで
シュウドウを覚えてきよってな」
「幼き頃より喧嘩になるといつも寝技に持ち込みよったからのう。
その気はあったと思うぞ」
「まあともかく、これでこの者を逃がすのに異を唱える方は
おられますまいな?」
「そちのいう真田家のためというのが附に落ちぬ。この者の素性を
知っておるのであろう」
「いえ、ただこの者からは何やら大きな力を感じるのです」
「力のう…」
「父上良いではありませぬか」
「何、お前までも…」
「父上は当家は騒動に巻き込まれるなと仰せになりましたが、
せめてこの程度の遊びはあっても良いでしょう」
「むむむ」
何がむむむだ。早くうんと言え。もっとも僕なら絶対言わないけど。
「…仕方がない。今度だけはそちに免じてこの者放してつかわす」
今度こそ本当に心から安堵した。
長すぎた一日にも漸く終りの目処がついてきたようだ。